全日本プロレスが終焉

shugoro2013-02-27

写真整理が追いつかないのでとりあえず歯抜けで27日からUPします。
この日は本当は新町へ打ち合わせへ行く予定でしたが、
原稿書きがあって、初校ゲラをチェックすることができないため、
無理を云って一日延ばしてもらい、『ココス』で作業していた次第です。
したがって初校ゲラ戻しが終わらないと、フミノ式ダイエットも解禁日のままで
このままではリバウンドのほうが怖く、また絞り直しになりそうです。
さて、本日はこんなニュースがありました。


【故ジャイアント馬場さんが創設した「全日本プロレスリング」が終えんへ】
プロレス界の大手団体・全日本プロレスリング株式会社(内田雅之社長、武藤敬司会長)が、
事実上の身売りをしていたことが2月25日に明らかになった。
 同日に会見を開いた同団体は、昨年11月1日付で、
企業再生支援会社の株式会社スピードパートナーズ(以下、SP社)の
白石伸生社長(40)に、100%の株式を売却していたことを発表した。
 さらに、SP社は新たに「全日本プロレスシステムズ」を発足。
内田社長、武藤会長の役職は変わらないが、
白石氏が実質的なオーナーに就任。SP社から三阪輝(あきら)氏を副社長として送り込んだ。
今後、同団体は新会社の下で、運営されることになる。
 白石氏は買収について、「新日本(プロレス)と全日本の差がつきつつあった。
私が資金面、財務面をサポートし、中小企業から業界のリーディングカンパニーにする」と話した。
 昨年1月にカードゲーム制作会社のブシロードが親会社となって、
業績がアップした業界最大手の新日本に対して、
白石氏は「1年で追いつく」とライバル心を燃やした。
さらに、2年以内の東京ドーム進出、3年後に4大ドームツアーの開催との大目標を掲げた。
 日本テレビ、TBSとテレビ中継について、水面下で交渉に入っていることも明かし、
総合格闘技への進出や、4月以降は他団体に選手を貸し出さない鎖国政策も打ち出した。
 同団体はリング上では、昨年12月いっぱいでプロレスリング・ノアを離脱した秋山準潮崎豪
金丸義信鈴木鼓太郎青木篤志のバーニング軍5選手を、2月から丸抱えして、
息を吹き返した。その一方で、人件費が大幅に増えたこともあり、
現在フリー参戦している選手については、3月いっぱいで契約を継続するかどうかを
判断するリストラプランも浮上した。
 同団体は故ジャイアント馬場さんが72年に創設。馬場さんの死後、
三沢光晴さんが社長職を務めたが、ノア設立のために離脱し、
以降は未亡人の馬場元子氏が陣頭指揮を執ってきた。
02年9月に新日本から移籍した武藤が新社長に就任し、その後、元子夫人から株式の譲渡を受けた。
 今回のポイントは新日本のケースと違い、単なる身売りではないという点。
同団体の運営は、新会社に委ねられることになる。通称こそ「全日本プロレス」で変わりはないが、
馬場さんが興した「全日本プロレスリング」という会社は、旗揚げから40年にして、
興行活動を停止し、事実上その役目を終えることになる。時の流れとはいえ、
一抹の寂しさは禁じ得ない。(落合一郎)(リアルライブ 2/27 18:30)


すでに1年前の1月31日新日本プロレスブシロードに全株式売却されていたことを考えれば、
虫の息ながらも全日本プロレスはよくもここまでもったものだと思います。
全日本プロレスはやはり冒頭写真ジャイアント馬場に始まり
ジャイアント馬場で終わったプロレスといえましょう。
1999年に馬場が死去したあと、後継となった三沢光晴も1年後にノアを設立して独立。
やはりこれは馬場の奥さんの元子が介入していたのが原因でしたが、
三沢の離脱で川田、渕を除いた全日本の選手がすべてノアに移籍し、
もうその時点で終わったと云っても過言ではありません。
そこに新日本からきた武藤敬二が来た時点でもう無茶苦茶。
できれば全日生え抜きの選手に継いでほしかったのですが、
川田・渕では客が呼べずどうにもならなかったのでしょうな。
全日本派・新日本派という好みの違いもあったが、僕はどちらのプロレスも好きでした。
どちらかといえば先に新日本から入ったので全日本の馬場さんの全盛期は知らないけど、
それでも入場行進曲の「王者の魂」のように馬場さんは絶対王者でした。
競馬の世界でもそうですが絶対王者がいなくなってからつまらなくなってしまった。
最後にこのテーマ曲を聴いて締めくくりたいと思います。


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