あらためて三沢光晴を追悼する(6月13日)

shugoro2009-06-15

6月13日夜、プロレスリング・ノア社長の三沢光晴が試合中の事故で死亡したという
ニュースを見たとき「信じられない」と思ったファンは全国で一体何人いただろうか。
あの受け身のうまさは比類なき天才といわれ続けた三沢が、
試合中のバッグドロップで頭を強打し意識不明になり、
心肺停止状態で広島大学病院に救急搬送。
13日22時10分に死亡が確認されたという。享年46。


もう他のブログや動画でも追悼記事は山ほど書かれているが、描かずにはいられない。
僕は高校時代からのプロレスファンで、ちょうど全日を観るようになったとき、
三沢が二代目タイガーマスクとしてデビューした。
初代の頃は観ていなかったので佐山さんには悪いが、
たちまちタイガーマスクのファンになった。
80〜90年代の彼の試合を観ていたのは、中年世代になってしまうが、
それ以前にもテリーファンクの引退試合でスタンハンセンのラリーアートの餌食になったり、
ルーテーズのバックドロップのPRの餌食になっている三沢から知っている。
下積みも長かったが、元々はジュニア・ヘビーだっただけに体格も不利だった。
あの小柄な身体でジャンボ鶴田やスタンハンセン、
ビッグバンベイダーなどと互角に戦っていたのだから驚嘆する。
タイガーマスクから6年後の1990年、彼は試合中に自分の意志でマスクを脱いで素顔の三沢光晴に戻った。
天龍たちが大量離脱して危機に陥った全日を救ったのは三沢だった。
あのジャンボ鶴田との死闘。まさに満身創痍といわれ続けた三沢の闘いだった。
鶴田が離脱後は三沢・川田・田上・小橋の「四天王プロレス」を展開した。
1999年、ジャイアント馬場が亡くなり、全日の社長を任されると、
さすがの三沢も運営のプレッシャーから弱音を吐くこともあったが、決して逃げなかった。
ちょうど僕が寄席の運営管理で苦悩していた頃と重なる。
2000年、三沢は理想のプロレスをめざして全日を離脱し、
プロレスリング・ノアを設立。社長兼プロレスラーは相当な苦難だったと思う。
三沢自身も年齢の衰えから技のレパートリーが減ったが、
エルボーは無敵だったし、エメラルド・フロウジョンという大技も開発した。
常にメインで身体をはって闘い続けたのだ。

人間的な魅力も三沢の持ち味だった。
ドロドロとした金権まみれであったプロレス界にあって、
決して欲では動かず、仁義を通し続けた。
三沢はだから他のレスラーやファンからも愛され続けた。


しかし、時代の流れとともにプロレス自体が低迷し、
2009年3月で地上波放送が打ち切られた。
三沢自身も選手たちの面倒をみなければならないと必死だった。
体調不良をおしても出場しなくてはならなかったのだろう。
不慮の事故であったとしかいいようがない。
そして技をかけてしまった某選手も自責の念に駆られているが、
涙を流しながらも翌日の試合に予定通り出場した。
この人たちは本当にプロなんだなと思った。

最後に一度もプロレスリング・ノアを観に行けなかったことが心残りとなった。
あの三沢の入場行進曲『スパルタンX』とともに、
みっさっわ! みっさっわ!
のコールができないのは残念でならない。
ここにあの音楽をUPするので、ぜひ追悼の意を込めて聴いてもらいたい。
ちくしょー日テレ! きちんと特集番組組みやがれ!
で、もってファンとの偲ぶ会を開催してほしい。


しかし、三沢がいなくなって今後のプロレス界はどうなるのであろうか。


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