老害について考える2

最近の若い編集者に閉口してしまうが、それが現在では主流なのかもしれない。
ページ当たり2000円とか1カ月で一冊作れとか平気でいう。
質が落ちても本になっていればよいという感覚だ。
おかげで初校責了が増え誤植も増える。原稿もまともに調べて書かずウィキ写し本が増えた。
昔の写経がコピペですむのだから、時間も随分短縮されているのだが。
昔の価値感だけで「単価が安い」とばかりいっていれば、仕事がなくなってしまうかもしれないし、
あまり安請け合いばかりしているのも時間と寿命の無駄になる。
でも、このバランスと駆け引きが実に困難なことかを考えさせられる。
しかし、形あるものはいつか壊れるように、人には寿命がある。
僕はそれがお金(生産力)と考える。理系を断念した僕ではあるが、
ソロバンには明るかったのか、数字だけはなぜかシビアにみる。
自給自足していない限り、お金がなければ生きていけない。
生産力がなければ稼げない。稼げなくては東京に住むことなど、
ネットカフェ難民や宿なしでない限り不可能になってくる。


現に保証人の身寄りもおらず、代行の保証人を立てても、
家賃が払えず借金取りに追われていた生産力のない老人がいた。
老人といっても50前だったが……。まぁ金はあってもいずれ天からのお迎えはくるが。
残念ながら僕も老境に差し掛かっていることだけはたしか。
その日暮らしが精一杯でまともな投資はできやしない。
こうなると地方出身者は不利なのである。もはや馬券も全国で買えるようになったし、
ネットは全国でみれるからムリに東京に住む必要はないのだが。
安い・高いという判断もあるが、最終的には「血となり肉となる」かだ。
現地を取材すれば時間はかかるし、お金もかかる。
しかも取材しっ放しの未整理では、その時の満足でしかない。
取材1日、整理1日かけてようやく財産になると考える。
記録が記憶となり、冷静に客観的に時代を書きとめた『三国志』の著者陳寿になる。
僕が休まず意地でも日記を書き続けているのは、
文章を書く癖とスピード(生産力)を維持するためだし、
自分の書いた日記ならコピペでも問題なかろう。


でも、最近は原稿と写真を要求するあまり、
取材よりも写真を押さえてくるのが必要条件になっていないかと思うことがある。
某版元で別人が取材した原稿のリライトを頼まれた。
取材していない僕が取材した人のリライトをするという嫌な役割である。
でも、この程度のリライトであれば、
何度も書き直しや自腹切りしている森田世代からみればちょろいものであった。


こんなことを書いてしまったが、人の才能の個人差は大きく、
僕など背伸びしても森田芳夫氏の域など永久に達せるわけもない(当たり前だ)
森田芳夫氏は中央公論社の編集長から旅行作家に転身した故宮脇俊三氏の遺志を継げる方である。
実業之日本社で売れる書籍・雑誌を発行し続けた伝説のカリスマ編集者なのだから……。
引退する時期は刻一刻と迫ってきていることだけは事実と受け止め……。おしまい


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