『徳川家康』と小牧・長久手の戦い

shugoro2008-03-19

新・歴史群像シリーズも年度決算のためか、
先の11号『信長と織田軍団』に続いて12号の見本誌が手元に届きました。
新・歴史群像シリーズ12『徳川家康
B5版 172P 1575円 購入はコチラ
引き続きブログでも好評の桐野先生橋場先生も執筆しています。
それにしても今回は月刊誌並みのペースでかなりハードでしたね。
正月から休みもないまま3月まで来てしまった感じです。
とはいえ、徳川家康は友人の脇谷英康が好きな人物で、
昔つくった戦国武将占いでは脇谷英康の誕生日が徳川家康に当てはまるように、
周期を設定したら、ものの見事に各人がイメージに近い戦国武将になりました。
ちなみにshugoroは織田信長でした。大変おもしろい占いなので、
いつかはWEB上でもUPしたいと考えているのですが……。
ちなみに『天璋院篤姫と幕末をゆく』(一水社)の編集人は脇谷家康でした。
今回僕が担当したメインはやはり故郷の小牧長久手の戦いです。
小牧山城を中心とした家康軍と秀吉軍が布陣した砦をはじめ、
2004年11月に訪れた長久手古戦場や岩崎城など、当社撮影の写真がふんだんに使われています。
いや、この機会がなければ、誌面に登場することなく、
ハードディスクの中に埋もれていたことでしょう。
同郷同級ジモティのkazu、ドラえもん、晃生などは郷土研究も兼ねて必ず買うように。


で、今回どうしても気になったことがあって小牧市教育委員会に尋ねたことがありました。
以前にも書きましたが、近年、全貌が明らかになりつつある南外山城跡の存在です。
最近の個人的なWEBではこの南外山砦が徳川軍の砦だったとする説が浮上しているからです。
従来の徳川軍の砦は小牧山から東に蟹清水・北外山・宇田津・田楽ですが、
発掘された南外山城跡の規模からして北外山と宇田津の間に南外山を中継に使ったとされるのです。
この件に関して教育委員会に問い合わせたのですが、教育委員会の見解では、
防衛ラインが南に下がりすぎていて確実とはいえないそうです。

しかし、あえて地形上の配置から見ますと、
秀吉軍は小牧の二重堀まで侵出しており、南北に長い布陣になっています。
秀吉軍が岩崎山から二重堀を結ぶラインに土塁を築き、
家康軍は宇田津と田楽のラインに土塁を築いています。
しかし、北外山から宇田津の東西ラインに何も砦がないと、
秀吉の南北ラインに軽く貫かれて尾張のさらに奥地へ侵攻されてしまうのではないでしょうか。
おそらく天才と謳われた脇谷英康が家康であったら確実に南外山に砦を築くでしょう。
今回は「小牧長久手の戦い」の地図を本書から引用しましたが、
あえて僕の編集で地図上に「南外山」の地名を入れたのはそういう観点からです。
それにしてもこれまでの南外山城は謎が多く、『尾張志』などによれば、
堀尾孫助(堀尾茂助・金助と同族)の居城だったとされますが、
正中年間(1324〜26)には廃城となり、跡地に八幡社を勧請したといわれています。
しかし、発掘が行われたのは、八幡社より南の畑地で、
明らかに中世以降に城らしきものが存在しているのです。
小牧長久手の戦い時は堀尾茂助(吉晴)は秀吉方に属していたわけですから、
同族でも敵味方に分かれて戦ったことになります。
今後どのように説が変わってくるのか分かりませんが、今後の研究成果が楽しみです。

ちなみに今回本書では編集方針で「小牧長久手と表記を統一しましたが、
本来、戦場となった小牧市長久手町は全然違う場所なので、
正式にはやはり「小牧・長久手と表記したほうがよかったとは思いますが……。


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