破壊された故郷の文化と自然

GW明けの五月病2日目は、スローながらも夕方までに6ページ分入稿。
いつものペースなら倍は進めているのですが、いまいちエンジンのかかり具合が。
地図指定入稿後は速やかに原稿書きもはじめなくてはいけなかったのですが、
昨日、アマゾンで取り寄せた参考図書はなんと歴史小説
結局、明日は国立国会図書館行きとなりそうです。


いつもの普段のつまらない1日で終わりそうですので、
先月4月29日に故郷へ帰ったときのレポートを。
祖母の見舞いがメインで、その日の19〜23時しか滞在しなかったので、
自分の村を全部回ったわけではないのですが、
その変貌ぶりは著しく、帰るたびにうんざりさせられます。
もう旧道と新道の変化は無茶苦茶で、以前に祖母が迷子になってしまったのも分かる気が。
で、なぜ必要としない区画整理をそんなに急ぐのか。
残る家、退去を余儀なくされる家の差別から地縁関係もズタズタになっています。
夜に散歩したため写真は撮らなかったのですが、
2年前の2006年3月23日の「間内駅増客運動4」に書いた南外山の天神社は半分破壊され、
K一君の家も跡形もなくなっていました。

この神社は東側に郷土の篤実家・鈴木勇右衛門(1836〜1914)の頌徳碑(写真左)が建っていたのですが、
この立派な碑すらなくなっていました。写真を撮っておいて本当によかったです。
いずれ移設されるのかもしれませんが、僕らが比叡山と勝手に呼んでいた小山はもうなく、
子どもの遊び場と呼べるものはなくなっていました。
誰も遊ばないので脇谷英康や満男君など僕らは、高校生になってもここで草野球やっていましたから。
東側には大八車などがあった古い民家がたくさん残っており、
くだらない都市開発より、レトロ横丁で売り出したほうがよかったエリアも
すべて昨年には立ち退きで完全な更地と化してしまったのです。
南外山の交差点から1本道の整備ということで、
もはや風前の灯火にあるのが、旧米搗場にある大木(写真右)です。
昔は小学校の集団登校の待ち合わせ場になっていました。
米搗場があったせいか、この大木にはコメツキムシがたくさんいたのも思い出です。
木登り好きな僕や脇谷英康はこの木にもよく登ったものです。
いつからここにあったのか分かりませんが、幹の太さからいって樹齢150年以上は間違いないでしょう。
しかし、この大木でさえ交通の障害になるということでなくなろうとしています。
巷で移植するという噂を聞きましたが、文化財や自然には関心の薄い小牧市ですから、
そのまま切り倒されてしまう可能性はありましょう。
そして子どもも郷土への愛着を次第に失ってゆくのです。
人々も車を頼り歩かなくなりました。高齢化と過疎化の進む集落ではより住みにくくなっています。
自然もなく交通も不便で治安も悪い
これなら東京にいたほうがまだマシといえるのです。


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