フミノイマージン伝終章2――そして安らかに(5月12日)

フミノイマージンは終始後方2番手。これはいつもの位置取りと変わらない。
1000m通過は58秒2で昨年と同じ。あとは直線でフミノイマージン
伸びてくることを信じてカメラを構えた。
シャッターは連写したが、そこには水色メンコのフミノイマージンが映らない。
フミノイマージンは何処へ? すぐにモニターにレースの様子が写されたが、
フミノイマージンは直線で故障を発生して競走中止、1頭だけ馬群から離れて行ったのだ。
茫然自失――完全な放心状態となった自分がいた。
何故、何故なんだ! これまでずっと走り抜いた丈夫な馬が、
なんでこんなところで故障しなくてはいけないのか。
慌てて競走中止となった直前手前のほうに目を向けてももうフミノイマージンの姿はそこにいない。
競走中止がすべて最悪の事態になるわけではないが、とにかく関係者から経過を聞くしかない。
魂が抜けたようにパドックに戻った。すでに最終12Rのパドックが始まっているので、
横断幕は片付けられない。もちろんIさんの貼った横断幕も残っている。
先にパドックにあったビニールシートを片付け、
パドックから馬が去ったところで自分のつくった横断幕を片付けた。
本当なら勝っても負けても最後にこの横断幕でIさんを囲んで記念撮影をするつもりであったのだが、
もうその心境ではなかった。「競走能力喪失は仕方ないにしても、
せめて生き延びてお母さんになって繁殖の道をつないでほしい」
とずっと心の中で願っていた。
パドックにもうひとつのフミノの横断幕だけが取り残された。
勝っても負けても無事に走りさえすれば、もうとっくに横断幕も片付けている時間である。
待ってもIさんはなかなか来なかった。
どんどん気落ちしていく僕に対し、野菜博士が「大丈夫」と声をかけてくれた。
しかし、何度もあの直線で競走中止を見ている僕は悪いほうへ悪いほうへと考えてしまう。
やがてIさんがパドックに戻ってきたので横断幕をはずすのを手伝った。
ここでビールを乾杯したことが一部で非難を受けているようで、
事情を説明してくれといえばいくらでもするが、
悪意にとられてはいちいち説明する気にはなれない。
ただ、あのときの心境だけはこの場で語っておく。
あそこでビールを飲んだのは、気落ちして心がとんどん離れていく僕に対し、
周囲の「元気を出して」という励ましの配慮であった。
本当は関係者のほうがずっと辛いはずなのに、なぜか自分のほうが励まされている。
そういう意味では野菜博士もIさんも大人で気丈な方だなと思った。
むろんビールなど味がするはずもない。Iさんはレース後に手綱をとった太宰騎手のもとに駆けつけ、
太宰騎手は「すいませんでした」と悲痛な表情で誤ったそうだが、
Iさんは「競馬だから仕方がない、それより君が無事でいてくれれば」と励ましたという。
本当に立派な方である
この時点での報告は「靱帯断絶」。「数日経過をみて馬が苦しむようなら……」という診断であった。
この日、競馬場に応援に駆けつけた関係者のフミノファンの方々は
すでにF駅前の某店に移動しており、Iさんと野菜博士の3人で向かうことになった。
競馬場をあとにする前に中山フミノ祭で一緒だった若手2名が一瞬だけ飯田さんに会いに来たが、
この2人とてそれが自分たちのできる関係者への配慮の限界だったであろう。
もう一人は自粛したが、それも選択のひとつである。
某店へ向かう途中で馬頭観音の前を通ったので、フミノイマージンの無事を祈った。
某店では中山フミノ祭でも一緒だったフミノファンの方たちが10名ほどいた。
中山フミノ祭のときはフミノイマージンが6着に敗れたが、「お疲れ様」と云って楽しく飲めた。
今宵ばかりはそんな心境ではない。
アフターの場で第二報が入った。右第1指関節脱臼による予後不良
一瞬、周囲の表情も曇ったが、「競馬である以上仕方がない」という気丈な考えであった。
もうこれまでにこういう悲しい場面は何度も見てきたのであろう。
それにしてもだ。フミノ歴代4頭の重賞ウイナーのうち、
フミノアプローズも比叡特別で競走中止して安楽死の処置がとられており、
4頭のうち2頭までもレース中の事故で亡くしたことになる。
これも不運だったというしかないのか。だが、その一方で、
フミノトキメキは3度の落馬と競走中止がありながらも生き永らえている。
Iさんは飛行機で帰るため先に退出したが、そのあともアフターの宴会は坦々と続けられた。
「競馬である以上」――それは自分も頭の中で分かっていても、
なぜか心のやり場に困ってやり切れない。なのでいくらお酒を呑んでも、
そのお酒が目から自然とあふれてしまうのだ。自らの幼さを恥じるしかない。
これまで関係者周辺のフミノファンの方々は、いつもこのようにアフターを続けたのであろう。
競馬だから勝ち負けはあり、勝てば嬉しいが、負けても無事であれば「次」がある。
このレースではもう1頭、知り合いの持ち馬サウンドオブハートも故障しており、
数日後に引退が発表された。次のない引退は残念だが、
牝馬ならば繁殖としての「次」がある。
しかし、もうフミノイマージンにはその続きが途絶えてしまったのだ。
鎮守の筆はここで止まるが、最後にすばらしい追悼文を書いてくれた
カスP氏の一部を引用して締めくくりたい。


判官贔屓」という言葉があるように、劣勢に立つ者に心寄せたがる日本人。
強い者に弱い者が打ち負かされるという物語は、それを見る者に、
リベンジを渇望させる。落胆や悲しみがあるからこそ、
それを糧に新たな物語を楽しむこともできるのです。
フミノイマージンはもうこの世にはなく、次の世代を残すこともできなかった。
しかし「フミノ」の冠名を持つ馬が絶えたわけでもなければ、
太宰の騎手人生が終わったわけでもない。フミノイマージンという馬の物語は幕を閉じても、
オーナーや本田調教師、この馬に重賞初勝利を含めて4つの重賞を獲らせてもらった
太宰騎手らその物語の担い手たちは新たにリベンジの物語を記すことができるのだし、
フミノイマージンのファンたちはそれを望んでいるでしょう(「フミノイマージン物語」の続編を。)


最後になるが、ここで不思議な現象を書き記しておく。今回の悲しい事故で、
netkeiba.comフミノイマージン掲示板コメント数が5月6〜12日の1位にランキングされた。

http://db.netkeiba.com/horse/2006105593/

ちょうどあの事故のあった日、競走中止から予後不良の公式発表があるまで
情報が錯綜しているが、やはり「無事でいて」「お母さんになって」という
フミノファンの想いが一致して書き込まれていたのだ。
そしてフミノイマージン掲示板が献花台となり、ここに毎日訪れては、
それぞれの想いをコメントしてゆく。それが絶え間なく続いており、
フミノイマージンは本当にファンに愛された馬だったということが分かる。
元JRA騎手の細江純子さんも追悼記事を書いている。
また一部で、調教師や騎手、オーナーなどを責める
コメント(Yahooニュースのほうがひどいが)もあるが、
もしフミノイマージンを愛しているのなら、心のやり場に困っているとはいえ、
関係者を責めることは止めてほしい。一番悲しんでいるのはオーナーであるからだ。


オーナーが高齢なだけに気落ちして体調を崩されないかと心配でならないが、
きっと天国に旅立ったフミノイマージンが、同じフミノの馬たちを見守ってくれるはず。
だから愛されたフミノイマージンはいつまでも語り継がれると同時に、
谷二先生にはまだやり残したことがある。
オーナーとして50年馬を愛してほしい
それが自称フミノ応援団長からのささやかな願いなのです(完)

フミノイマージン(牝/栗東本田優厩舎)
2006年3月4日〜2013年5月12日
マンハッタンカフェ/母シンコウイマージン/母の父Dixieland Band
通算31戦8勝/11年福島牝馬S(GIII)、マーメイドSGIII)、愛知杯GIII)、
中山牝馬S(GIII)2着、12年札幌記念GII
獲得賞金2億9028万3000円


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