メモリアル神岡線1

ふうーっ、本日もまたほとんど雑用に労力を費やされてしまいました。
といっているうちに11月も終わり。本日が神岡鉄道の最後の運転日です。
本年9月30日には我が地元のピーチライナーが廃止されていますし、
昨年3月にも岐阜の市内線・名鉄美濃町線揖斐線が廃止されました。
ここんところ中部地区での鉄道廃止が相次いでいます。
神岡鉄道廃止を皮切りに同県の樽見鉄道明知鉄道長良川鉄道などの
第3セクターにまで飛び火しなければいいのですが。
どこも予断を許さない状況であることには変わりありません。
神岡鉄道も観光鉄道として活かす道が模索されていたようですが、
元々開業が昭和41年(1966)と比較的新しい線ですので、
トンネルの占める割合が全体の60%を占め、景色はほとんど見えません。
復活はまずあり得ないこととなるでしょう。
それにしても復活運動というのは岐阜ライトレールや高崎競馬などでもありましたが、
結局のところ現実的ではなく、両者とも事実上断念となっています。
廃止したら元に戻らないというのは、それだけ復活が困難なことを物語っています。
神岡鉄道は貨物輸送だけに頼り、旅客をないがしろにしていたという
意見も一理ありますが、もともと沿線人口の少ないところゆえ、
神岡の街中(神岡鉱山前〜奥飛騨温泉口間)以外での流動はあまり見られません。
だから第3セクター化したときも新駅は神岡大橋しかできなかったのです。
ただ、残念なのは高山本線角川〜猪谷が台風で不通になっているからこそ、
飛騨古川〜飛騨神岡をバスで結び、高山本線の代替手段に使えたことは確かです。
随分と前置きを長く書いてしまいましたが、
本年度に入って1月3日11月19日と二度も行ってしまったのは、
それだけ思い出深い神岡だったわけです。
タイトルの通り懐かしの国鉄神岡線について2回に分け写真とともに紹介します。
一番最初に行ったのは昭和56年8月、中2のとき。国府町(現・高山市)にある
脇谷英康君の実家に泊まりに行ったときのことです。

濃飛バスで飛騨船津(現・飛騨神岡)(写真中央)で降り、市内散策をしたあと、
終点神岡(現・奥飛騨温泉口)まで歩いて往復しました。
神岡駅では当時スタンプが3つあったのですが、
二度目の昭和58年3月に行ったときは、
もうすでに「わたしの旅スタンプ」(写真左)しかありませんでした。
脇谷君は疲れて飛騨船津で眠っていましたが、
僕だけ飛騨船津から神岡口(現・神岡鉱山前)まで歩いて、
スタンプ(写真右)を押してきたのです。当時の国鉄スタンプでも、
三角形のものは大変珍しく、最初は周りでは僕ひとりだけしかもっていませんでした。
ところで国鉄当時は神岡口・飛騨船津・神岡と市街に駅がありましたが、
町の中心は神岡ではなく飛騨船津です。
第3セクター後に町の中心地らしく、飛騨神岡と改称しました。
当駅は無人駅でしたが橋上にホームがあり、
駅舎とホームまで結構階段を登るおもしろい構造の駅でした。
開業の新しい神岡線ですから、昭和46年に無人駅になったとはいえ、
鉄筋コンクリの駅舎で立派です。第3セクター後には美容院が入りました。
待合室も立派で脇谷君がずっとベンチで眠っていたのも
居心地がよかったからでしょう。というわけでドラえもん鉄道趣味の道
引き込んだ張本人・脇谷英康氏の思い出深い駅なわけです。
まだこの当時、ドラえもん君は鉄道など知りもしませんでした。(つづく)


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