メモリアル神岡線2

メモリアル神岡線2は昭和58年(1983)3月、中学の卒業旅行と称して、
晃生・脇谷英康・ドラえもん・大島の計5人で神岡線へ乗りに行ったときのことです。
ドラえもんが鉄道趣味にはまるきっかけは、
ちょうど国鉄の増収策でやっていた「いい旅チャレンジ2万キロ」で、
全線完乗をめざすキャンペーンです。僕と脇谷君も一緒に始めて、
昭和57年8月の越美南線(現・長良川鉄道)の制覇から始めたのです。
ただし、原則起点と終点の駅名を入れた自分の写真が必要になり、
写真嫌い(自分を写すのが)な僕は1線区で断念。
脇谷君も20線区ほどで断念し、ドラえもんだけ昭和62年3月に完乗を達成しました。
これが本年7月発売の『NIPPON鉄道全線のりつぶし』(人文社)
下地となっているわけですが……。
このときは岐阜駅までクルマで先行し、高山本線の始発と神岡線の午前中に
走る土曜運転の列車に乗って終点神岡(写真左)へ行きました。

この頃は神岡駅は委託駅で、当時は珍しかった女性駅員がいることでも、
知られたのですが、僕らが行った日はいませんでした。
現在の奥飛騨温泉口駅は2002年12月に完成した2代目駅舎で、
当時の旧駅舎は喫茶店になっています。しかし、鉄筋コンクリの立派な駅舎があるのに、
なぜ、費用をかけてまで新駅舎を造ったのかは疑問が残ります。
あの駅舎はどうなるのでしょうか? せめて記念館として残してほしい気がします。
さて、以前に僕と脇谷君が神岡に来ているので、
神岡〜神岡口3.2kmを歩くことになっており、
神岡で駅弁を食べたあと線路をずっと歩きます。
出口のみえる第二神岡トンネルをくぐって途中の飛騨船津(写真右)で記念撮影。
写真は左から大島・脇谷英康・晃生・ドラえもんです。
飛騨船津はトンネルとトンネルの間に挟まれた橋りょうの上にホームがあり、
ホームから神岡市街が一望できます。飛騨船津から次の神岡口までは、
1kmと大変短いのですが、この間に500mほどの第一神岡トンネルがあり、
以前独りで行ったときは市街を歩いて遠回りしたのですが、
このときは5人だったので出口の見えないトンネルを歩いて神岡口に向かったのです。
(危険なことしてごめんなさい。もう時効ですが、絶対に真似しないでね)
そして神岡口で念願のスタンプをGETして、再び上り列車で猪谷へ戻りました。
猪谷で僕とドラえもん・晃生は富山方面へ、脇谷君と大島君は高山方面へと、
旅路が分かれましたが、僕たちはこのあと直江津まで行って折り返し。
金沢駅で駅寝して、翌3時49分発という七尾線の超早い始発に乗り、
羽咋で折り返して米原・岐阜経由で最寄の鵜沼まで戻ってきたわけです。
脇谷英康君は昔1日このルート(鵜沼〜富山〜金沢〜米原〜岐阜〜鵜沼)で、
彼女の英子さん(現在の奥様)とデートしましたところ、鉄道乗りっ放しだけの1日に、
「次回からは独りで行ってきて」と云われたそうです。

話はずれましたが、神岡口駅にも鉄筋の立派な駅舎(写真左)があり、
上のホームへは地下道と階段であがる構造になっていましたが、
第3セクター後、いつの間にか駅舎が壊され、
駅員はホーム内にある建物で業務をするようになりました。
神岡鉄道では唯一の駅員配置駅だったわけです。
第3セクター後は運賃高で興味が薄れていて、
平成16年(2004)まで21年間乗っていなかった神岡鉄道ですが、
僕が一時的に富山にいた平成元年(1989)頃、
ドライブかなにかで近くを通った際に改称された神岡鉱山前駅で止めてもらい、
そのとき押した神岡鉄道のスタンプ(右)が出てきました(この頃は駅舎はありました)
当時から七福神の絵柄になっているところを見ると、
かなり早い時期から祀っていたのですね。あまり増客の効果はありませんでしたが。
というわけで神岡線および神岡鉄道の話を終わります。
本日の毎日新聞には「飛騨市第3セクターからレールを無償で譲り受けて、
不定期の観光鉄道として再出発を検討している」とありましたが本当でしょうか。
レールを残しておくと維持費もかかりますし、
津川雅彦氏が復活させようとしたあの広尾線愛国〜幸福ですら実現に至っていません。
現実的には神岡鉱山前〜奥飛騨温泉口間を残すのがいいと思いますが、
それでも集客があるかどうかは疑問です。
神岡から改称された奥飛騨温泉口駅ですが、実際の奥飛騨温泉へはバスで約1時間。
接続もそれほどいいわけではありませんでした。
安房トンネル開通で東京と飛騨のアクセスはぐっと便利になったのですが、
大半は奥飛騨温泉から小京都高山へ流れてしまいますから。
それでも希望をもつことはいいことです。
でも生活路線としての使命を終えたことには変わりありません。
これから奥飛騨は豪雪に閉ざされる冬を迎えます。
ありがとう。そしてサヨウナラ神岡鉄道


【人気blogランキングへ】