間内駅増客運動5(最終回)

月曜日から続いた「間内駅増客運動」も最終回。
今回は八幡社拝殿東の小高い土手に残る南外山城跡を紹介する。
城跡碑には「小牧町」と彫られており、市制前に建てられた石碑だが、
古城ファンには隠れた人気を集めている。
  
東春日井郡誌』によれば土地の豪族堀尾孫助の居城跡と伝わり、
小牧町史』『尾張志』にも同様の記事がある。
しかし、八幡社創立当時にはすでに廃墟となっていたという。
これ以外の記述が見当たらないのであるが、八幡社土手に土塁の形跡をとどめている。
さらに以前、本殿裏手には堀の形跡とみられる窪地があった。
現在は窪地が埋め立てられてしまったが、それでも堀の形跡をわずかにとどめる。
八幡社西側に公園が設けられ、やはり小高い塚に正一位稲荷が祭られているが、
城の守護神と関係あるのか定かでない。昔は朽ち果てた祠が建つのみであったが、
近年、地元の同志によって復興され、奉納の幟がたくさんみられる。
南外山地区は縄文時代海岸線があった場所で、古くから外山郷として栄えた。
だがこれまで出土物はなく、僕が中学の頃にはこの付近があやしいとみて、
何度か発掘調査に行ったものだ。僕に先見の明があったかどうかは別として、
2001年に入ってから土地の区画整理が進み、南外山でも北浦・東浦を中心に、
縄文〜室町期の遺物が多数出土している。

  東浦遺跡付近
とくに八幡社南の畑作地であった東浦遺跡では、
南外山城跡の外堀と思われる溝が発掘され、
その後、毎年にわたって発掘調査や現地説明会も行われている。
本年度3月1日には奈良〜平安につくられたとみられる土馬(どば)の頭部も発掘された。
考古学ファンには注目を集める場所になっているのだ。
これまでの調査から推定すると城域はかなり広範囲だったとみられ、
むしろ八幡社の南側に城が実在した可能性もある。
いま南外山は急速に都市開発が進み、立ち退きを余儀なくされる家も出て、
昔ながらの古い民家や細い道、故郷の風景が失われようとしている。
 
東浦遺跡も数々の遺物を出土しながら、区画整理の地域として宅地造成を急ぎ、
遺構が闇に葬られようとしている。僕も帰省がてら失われてゆく風景を撮ってきたが、
少子化にともなう人口減少の時代に、都市計画を急ぐ必要があるのだろうか。
計画前に発掘されていれば、貴重な遺跡として後世に語り継がれたかもしれない。
無理な都市計画は南外山の人口減を招き、それが間内駅の乗客減にもつながっている。
道はたしかに拡張されるだろうが、かえってクルマの通行量を増やすだけで、
高齢化の進む地域では、必ずしも住みやすくなるとは限らないのだ。
僕の身の回りだけでも、区内の交通事故で2名の高齢者の命を奪っている。
幸い命に別状はなかったが、ウチの祖母も一度交通事故に巻き込まれたことがあった。
まあ結局潤うのは土建業者だけであろう。
桃花台新交通の廃止をみても明らかなように、一方で廃止し、一方で工事を進める
「スクラップ&ビルド」による行政の醜態を晒し出しているだけなのだ。
さてこれにて連載を終了する。本当は地図も用意できればよかったのだが、
一度間内駅で降り立って失われてゆく町並みを観察するとよいだろう(完)
参考文献『小牧の文化財


【人気blogランキングへ】