郡上八幡葵の城仮オープン

shugoro2014-08-29

8月29日〜9月3日まで荷物の受け取りと
帰路に越中八尾おわら風の盆などの取材に出かけ
撮影したのは450枚。今回は慌しく出かけたため、
データ取り込みの接続コードと外付のハードディスクを忘れてしまったので
写真整理は9月3日の帰宅後しかできず
この8月29日分が歯抜けのままになっていました。
3日夜に帰宅後もあれこれ雑用をしていて更新ができず
9月4日になってようやく更新に至る次第です。
前日に引越業者が荷物の引き取りに来て
翌日に移動先の郡上八幡に荷物が届けられため
翌朝には郡上八幡へ向かうわけですが、
移動はもちろん新幹線というわけにいかず青春18です。
それでは青春182冊目1回目(延べ6回目)となる行程から。


中野425→513高尾514→550大月553→641甲府646→813塩尻817→
1013中津川1019→1041釜戸1059→1118多治見1126→
1219蘇原1228→1249美濃太田1311→(長良川鉄道)→1430郡上八幡


荷物運びが終わったあとも後始末の整理が大変で
それも終わり切らぬまま慌しく出かけることになりましたが、
結局、徒歩では間に合わないため上高田〜中野はタクシー730円の出費を招いてしまいました。
本当、こういう意味でも現在の場所は経済的な損失が大きいものです。
中央本線をひたすら乗り継いで、復旧後の中央西線を経由し
太多線経由で長良川鉄道起点の美濃太田へ向かいますが、
この行程だと接続が悪く、木曽福島〜中津川間で
特急(ワイドビュー)しなのに乗れば、1本早い列車に乗車できるのですが、
今回はいきなりの出費もあったので特急は利用せず、
釜戸の新しいスタンプ押印し、さらに蘇原駅で折り返しからの乗車です。
美濃太田では松茸の釜めし1000円を購入し、酒を飲みながらの郡上八幡到着。
駅からは徒歩15分とかからず、15時までに何とか荷物の運び先へ着きました。
このあとガス屋の立会いがあり、16時過ぎに引越し業者が到着。
大量の段ボール箱は1階の店舗スペースにとりあえず置いてもらい、
厄介な本棚は2階に運んでもらいました。
まだ荷ほどきはすぐにやる気にならず今後ゆっくりとやっていくことになりますが、
この荷物運びが終了したこの日をもって
冒頭写真郡上八幡葵の城】が仮オープンです。

この葵の城は幕末の戊辰戦争時に徳川家(葵紋)に忠義を尽くした
郡上藩の凌霜隊に由来しています。
慶応4年(1868)正月3日に鳥羽・伏見で戦端が開かれた戊辰戦争
薩長を中心とした新政府軍の勝利に終わり、
これによって各藩は新政府軍に与するところが増えましたが、
それでも藩論が勤王と佐幕に分裂して紛糾し、
粛清を経て藩論を統一したところも少なくありません。
しかし、譜代の青山家の郡上藩だけは藩論分裂という珍しい行動に出ます。
つまり藩内の粛清を避け、表向きは新政府軍に恭順しつつも
佐幕派であった江戸在藩の藩士45名が弱冠17歳の朝比奈茂吉を隊長とする凌霜隊を結成。
藩士の扱いで会津藩の救援に向かったのです。
この思惑は勤王、佐幕のどちらが勝っても
生き残れるという日和見行動と批判される向きもありますが、
当時、周辺の大藩である尾張藩が新政府軍に恭順したことで
周辺の藩も勤王に統一していますから、そんな浅はかな考えでなく
やはり徳川家への御恩と新政府軍の理不尽な仕打ちへの義挙とみるべきでしょう。
凌霜隊は小山宿、宇都宮、横川宿、大内峠、関山宿など各地を転戦氏しますが
明治と改元された9月22日に会津藩は降伏。凌霜隊も涙を呑んでこれに従います。
しかし、戦死や行方不明を除く35名の生き残り隊士たちの処遇は悲惨なものでした。
脱走者の戦犯とみなされ謹慎を命じられ、獄舎に収監されます。
あまりの酷い仕打ちに城下寺院の嘆願によって長敬寺に移されますが、
明治3年(1870)にようやく釈放されたものの、
世間の目は冷たく、隊士たちは郡上を去ったとのことです。
隊長の朝比奈茂吉も彦根藩家老の養子となり、椋原義彦と改名し彦根で生涯を終えています。
現在では郡上八幡城の脇に凌霜隊顕彰碑(写真左)が立つ凌霜の森があり、
隊士の名簿(写真右)が記されています。
ちょっと写真では見辛いかもしれませんが、
4番目の赤囲みの隊士に小出於莵次郎の名が見えます。
これはたぶんご先祖だと勝手に思います。
小出家のルーツは豊臣秀吉の親族であった小出秀政ですが
この小出家も関ヶ原の戦いで家を東軍と西軍に分けて生き残り明治維新を迎えています。
このうち帰農した小出家が僕の祖先にあたりますが
この祖先でもやはり郡上八幡へ移住した人がいたのです。
小出於兎次郎は隊長と副隊長2名の次に名が記されていることから
隊士としてはかなり上位の身分にあったと思われます。
しかし、小出於兎次郎は9月1日に関山村で負傷し、
7日に雀林の病院で44歳で亡くなっているのです。
この先祖の功績を称え、葵の城と名づけたわけで、
ちょうど実力派の女性騎手木之前葵ちゃん
名古屋競馬場でデビューしたのも不思議な縁ですね。
まだ仮登記の段階ですので、本登記後の正式オープンはもう少しあとになります。
今回の郡上八幡プロジェクトは将来的な郡上八幡への移住もありますが、
やはり東京でのタコ部屋からの解放と同時に
捨てれない貴重な史料を将来的には資料館として一般公開する目的もあります。
あとはやはり自分自身も体感したことですが、郡上ライフの満喫です。
これまでダンサーの悦ちゃん小関ファミリーなど郡上八幡に案内したことがありましたが、
やはり郡上八幡での宿が確保できないと、郡上八幡を存分に満喫できないからです。
とくに徹夜踊りシーズンは宿が1年前から押さえられてしまうほど人気ぶりで、
過去にも美濃太田に宿をとったことがありますが、
これだと長良川鉄道の終電が早すぎて郡上おどりを楽しめません。
終夜の臨時列車もありますが、宿泊先の門限もありますので
やはり最終列車で美濃太田へ戻るしかなかったのです。
僕もこの拠点を確保したことで身軽に行動できるようになったメリットもありますが
郡上八幡を訪れてくれる友にも、郡上に泊まって
こころのふるさと郡上八幡を存分に楽しんでほしい。

まだ仮オープンなので内部公開は一部だけにしますが、
建物は元は陶器屋でした。1階部分は1台だけ駐車が可能です。
外観では2階に見えますが、実は天守閣にあたる3階部分に
VIPルームの葵の間(写真左)があり、
ベランダではバーキューなどが楽しめるほか
夜はライトアップした郡上八幡(写真中央)が一望できます。
もちろん紋号は葵ちゃんにちなんだ木之前葵(写真右)です。
まだ整理もつかず、これから東京と郡上八幡を行ったり来たりになりますが、
ぜひshugoroの郡上滞在時には遊びに来てください。

荷物運びがひと段落ついたあと、入浴券の余っていた唯一の銭湯「天徳湯」につかり、
カズコさんの店『玉のや』で風呂上がりのビールを飲んだあとで
マユミママさんの店『華』をハシゴ。
金曜日はカツカレー(写真左)の日ということで狙っており、
そのために1件目は飲み物だけに止めました。
カツカレーは揚げたてのジューシーなトンカツに具だくさんで(゚Д゚)ウミャアアアアア〜
他にも左2番目からクジラ肉、大和梨オレンジピールをチョコでコーティングした
オランジェットなど(゚Д゚)ウミャアアアアア〜
オランジェットはチョコのコーティングが大変難しいとか。
しかし、前日から睡眠不足のままハシゴしたのでバテバテになり
23時過ぎに店をあとにし、葵の城で熟睡しました(9月1日につづく)


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