小出ふ志逝く

shugoro2009-11-24

昨日のことであるが、午前11時に大好きなおばあちゃんが急逝した。
数え年99歳の大往生であった。これまでにも親戚一同の葬儀には何度も出ているが、
自分の家族での葬儀はこれが初めてだった。
しかし、本の校了が控えていたため、すぐに飛んで帰るわけにもいかず、
兄だけ先に帰り、自分は入稿作業を継続し、本日の印刷所とのやりとりを経て、
半分の4折分だけ印刷所に入れた段階で通夜に駆けつけた。事務所を出たのは17時過ぎだったか。
もちろん今回は品川から名古屋まで本当久々に新幹線のぞみに乗った。
突発的に乗車券を購入したので自由席にしたが、席は品川からでも確保できた。
そのまま名古屋で中央本線に乗り換え、名古屋市内の大曽根で下車。
ここから地下鉄・名鉄小牧線を乗り継いで葬儀場のある小牧口へ向かった。
葬儀場に着いたのは20時30分で、友人仲間にも通夜に出てもらったが間に合わず、
結局、逢えたのは脇谷英康とやっちんだけであった。
昨年の暮れに脳内出血で斃れて入院するまでは、本当に元気だった。
帰省のときに「もったいない」と口癖のようにいう外食を無理矢理連れてゆき、
『備長』や『美濃の郷』でご馳走してやることが楽しみだった。
夜に出掛けて行方不明になったり、骨折もしたがそのたびに復帰し、
120歳まで生きるだろうと思っていた。
でも、入院して食事が採れず、8月に病院で逢ったときは、
もう別人のように衰弱しきっていた。入院するまでは90歳を超えても、
一緒に温泉へ行ったり食事をすることもできたのに。
こんな状態だったからいつ危篤になってもおかしくない状況であったが、
それがこんな急にやってくるとは思わず、家族ですら死に目に逢っていない。
たぶん、僕がその場にいたら心臓の蘇生マッサージや生命気を注入するなど、
馬鹿な行動に出たであろう。泣きたくても泣けなかった。
葬儀場のプレア小牧で一泊し、翌日は始発2本目の小牧線で名古屋へ行き、
中村公園の祖先・小出秀政邸を撮影してから事務所に戻った。
しかし、ここからが本当の試練が始まり、日記の更新すらままならなかったわけだ。


せめてもの追悼にウィキならぬフィキぺディアで祖母ふ志の経歴を記しておく(By村野鎮守)

小出ふ志
提供: フィキペディア(Fikipedia)『三国志』「尾張書」小出ふ志伝より

小出ふ志(こいで・ふじ 明治44年(1911)6月28日〜 平成21年(2009)11月23日)は、
尾張小牧の百姓である。インチキ予想師・小出脩五郎の祖母で、脩五郎の生き方・人格形成に
多大な影響を与えた。脩五郎自身もおばあちゃん子(※1)と自負している。
通称はバチャバット(※2)。shugoroの日記でもたびたび誕生日の祝辞が書かれている。
 家系は豊臣秀吉の叔父にあたり、初代和泉岸和田藩3万石を領した小出秀政。
秀政は尾張中中村の出身で一族は秀吉に従ったが、帰農して当地にとどまった
子孫の末裔という(※3)。その後、本家は丹波園部藩2万4000石の大名として維新を迎えている。
経歴・人物
 小出市次郎と「むめ」の長女に生まれ、9歳下の妹に「八事のおばさん」といわれる「あき」がいる。
あきは裕福な家に養子に迎えられ女子高等学校の教育を受けているが、
ふ志は貧しく尋常小学校でしか教育を受けていない。
 小出家は女子しかいかなったため、ふ志が家督を継ぐ形で入婿を迎えることになり、
18歳で吉田保和と結婚。長男栄をもうけるが、保和は馬を飼おうとして勘当される。
脩五郎の馬好きは祖父の隔世遺伝といわれる(※4)。
 その後、伊藤家の高雄を入婿に迎えて再婚。5女をもうけるが、
うち4女の智子は戦時中に夭逝。たび重なる緊急体制の発令などの心労が死因という。
昭和19年(1944)に飛行場(現・県営名古屋空港)建設のため、
西春日井郡豊山村青山新田(現・豊山町)から東春日井郡小牧町南外山(現・小牧市南外山)に移住。
 屋敷はそのまま移築され耐久性もあり、築100年を超える貴重な文化遺産であったが、
平成元年(1989)に無惨にも栄の見栄によって破壊され、建て替えられた。
新居はバリアフリーにも対応できていない玄関の高い家だったため、
高齢者には住みにくい家となり、ふ志は段差のある家の中で頭を打って内出血。
平成20年暮れに昏睡状態となり、第一病院に入院。
しかし、食事を採ることができずに衰弱し、平成21年(2009)11月23日午前11時、
肺炎を併発して98歳で亡くなった。
 子ども好きで面倒見がよく、「昭和の良寛さん・寺田屋お登勢」といわれた人物で、
孫の脩五郎を可愛がった(※5)。そのため脩五郎は毎年敬老の日のプレゼントと
正月のお年玉を欠かさず贈っていた。また脩五郎の家に遊びに来た仲間たちともコタツで団欒し、
分け隔てなく御菓子をくれたため、脇谷英康はじめ岩田ドラえもん・めぞう・あまぞんなど
仲間たちからも大変慕われ、通夜には脩五郎の仲間たちが大勢駆けつけた。
みな成人して20年以上経っているが、いかにふ志が脩五郎の母的な存在で、
周囲に好かれていたかを示す証でもある。
子孫
長男の栄は売れない小説家。おばあちゃん子で孫の脩五郎はインチキ馬券師。
脩五郎がいまだ独身のため、残念ながら曾孫の顔を見ることは叶わなかった。
脚注
(※1)脩五郎は両親に怒られると、いつもふ志に庇護を求めていた。
ふ志も無条件で脩五郎を庇ったという。脩五郎はいつも、
ふ志の背中に隠れ「俺はおばあちゃんの子だ!」と叫んでいた。
(※2)これは脩五郎が幼い頃、ふ志が洗濯物を干して叩く際に、
いつも野球バットを持っていってしまうので、「おばあちゃんバットは?」と云っているのが、
略されて通称になったものという。
(※3)真田一族が関ヶ原の戦い(1600年)で、親子・兄弟で敵味方に分かれ、
存続をはかったのは有名だが、小出一族も秀政・吉政が西軍、
秀家が東軍について家の存続をはかった。万が一を考え、必ず保険をかける一族だから
先祖の地に子孫を残しておいても何ら不思議ではない。
(※4)この事実を知った脩五郎は、「祖父が馬を飼っていれば今頃、
尾張地区は社台グループに負けない大生産者となったであろう」と妄想している。
(※5)ソロバン塾の帰りは夜遅く暗くなるため、ハチ公のように毎晩迎えにきてくれた。
ただし、成人になっても夜迎えに来て、勝手に友達の家を訪ねてくるため、
近所には若干迷惑をかけている。


祖母ふ志への追悼メッセージお待ちしています。


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