5月31日に可児へ行商に出かけた際の追憶になるが、市内郵便局の風景印集めをした際に、42年ぶりに同級生が営んでいた『M岡酒店』跡も見てきた。
「ユニー可児店進出反対!」
を掲げていた商店街が現在どうなっているか気になったからで、店舗自体閉店して数十年経っているが、建物自体は残されていると耳にしていたからだ。Googleで検索すると「閉業」とあるものの、かろうじて店名は記されていた。
彼に逢ったのは2001年が最後で、このときまで実家の酒屋が健在であったことはたしか。その後、連絡先を絶って家出したので、親友であったT木先生は2002年の結婚式に招待できず嘆息させた。それから4年後、彼の祖母が亡くなった際のことを2006年2月3日に書いている。祖母が亡くなった時点で店を閉店したのであろうか?
初訪問は昭和57年(1982)だったと思う。ユニー可児店の開業は昭和56年(1981)11月20日となっているから、その直後であったが、まだまだ活気のある商店街だった。当時はT木先生に案内され、自転車で訪問したので、距離感が把握できていなかった。駅前と思っていたが、地図をみると駅から徒歩13分を表示している。
可児駅から可児郵便局で風景印を収集しながら商店街へ脚を運んでみた。可児市はもはや車社会が当たり前のような感じで、県道64号可児金山線沿いは新しい店が多く進出しているものの、この通りから1本はずれる商店街は曇天もあってかより寂しく感じられた。
シャッターが降りていたものの、『〇〇酒店』の看板は健在だった。酒屋を営んでいたということは酒販自販機などもあったのではなかろうか。もちろん自販機は撤去済である。向かいはすでに更地と化していた。まだ活気があったと思われる1990年代、三流とはいえA大学で経営の勉強をしっかりした彼は店のコンビニ化をめぐって祖父と対立して家出する。彼がめざしたものが何か分からないが酒類を販売していた『ココストア』系ではなかったろうか。『ココストア』は我が故郷の小牧市南外山にもあったが、いつの間にか閉店し車屋さんになっている。
大学を卒業して間もない頃であったが、彼は遠く離れた埼玉県に移り、会社に数年つとめていた。その後、祖父と和解して帰郷し店を継いだ。T木先生の父が営む会社も彼をサポートしようと、酒を大量注文していた。ところが最後に逢った翌年にラーメンチェーンの二代目ボンクラ社長について行き、またしても家出。その後、そのラーメンチェーンは倒産し、彼もまた行方知らずになってしまった。
祖母の葬儀にも出たかもわからないまま、彼の訃報がもたらされたのは2012年6月5日で、もう12年前の話になる。享年44の若さであった。彼の名を検索すると富山の山奥で五平餅屋を営んでおり、地方新聞にも掲載され、少なからず彼の虚栄心も満たされたのではないだろうか。
当時の話であるが、ある意味、田舎で悠々自適に過ごしていた彼を羨ましく思ったりもした。それから3年後に僕も郡上八幡へ移住した。生活面での改善はもちろんあったが、やはり数年住んでいると負の部分も見えてくるもの。ボランティアの酷使や自治会の役の押し付けなど辟易する部分も否定はできない。
今回彼の店跡を訪問してわかったことは、やはり僕同様、急激なモータリゼーションの加速に伴う時代の変化について行けなかったのではないだろうか。商店街の衰退をみて、彼が仮に店を継いでいたとしても、移転でもしない限り継続して営業して行けるとはとても思えなかったからだ。
それでも近くにあった『老舗市原屋』は営業しており、創業100年三代続く和菓子の老舗と紹介されている。栗の銘菓や光秀ゆかりの銘菓なども販売しているらしい。急いでいたので見送ってしまったが、入店して少し話を聞いてみたかったと後悔している。また、まだ営業している『スナック樹ン(じゅん)』もあった。もちろん昼間は営業時間外だが、もしM岡が存命だったなら親友のT木先生を交えて3人で呑みに行ったかもしれない。左上の看板には「ふれあいの街HIROMI」とあり、昔はたしかにふれあいがあったのだろう。
このあと前日のブログの話に続くのだが、ある意味こういう記憶の片隅に残っていたものを行脚したのは、終活を始めた僕なりの過去の一部の清算であったのかもしれない。