父との思い出は郡上八幡とともに

shugoro2015-12-15

この日は父の葬儀があり、前日の通夜と葬儀では冒頭写真のように
父の思い出の場所として郡上八幡豊山村・大山川」が紹介されました。

以前にも書いていますが、忘れもしない昭和54年(1979)8月30日。小学6年のときでした。
父は出世欲もあって仕事と趣味一筋で、家族サービスにはおよそ縁がなく、
この年は休みがあっても父は寝てばかりで、とうとうどこへも連れて行ってもらえない事態になります。
夏休みの宿題も終えて、何もすることがなかった終わり近くの30日。
ついに母が父にキレて泣き出し、しぶしぶ車を出し日帰りで連れて行ってもらったのが郡上八幡だったのです。
夏も終わりかけで、こちらの子どもたちはすでに新学期に入っていたようなので、
郡上八幡も観光シーズンを終えてひと段落して静けさを取り戻した頃でした。
大滝鍾乳洞、郡上八幡城、おもだか家民芸館へ行きましたが、これが郡上移住の原点となったのです。
あの頃と比較してみると、大滝鍾乳洞はケーブルカーの新設、
郡上八幡城は数年前に松の木が枯死して切り倒されたこと。
おもだか屋は以前は500円だった気がしますが
その代わり麦茶とお茶菓子のサービスがありました。
まぁ、こういう父でしたから中学になると、友達や独りで鉄道旅行に出かけてしまうようになるのですが……。
父は郡上八幡葵の城へこれまで三度来ました。
一度は9月の土砂降りの日で、このときは家にいただけで帰りました。

二度目は11月18日の雨天でしたが、このときは午前中天気がもってくれたので
いがわ小径や新橋などを見学。旧庁舎記念館でコーヒーを飲み
郡上おどりの手ぬぐいが気に入ったらしく、購入して自分の寝室に飾っていました。
このあと天気が崩れたので、『流響の里』で雨宿りしていましたが、
河童が好きで一角にあった「かっぱ天国」のギャラリーに見とれていました。
まぁ、葵の城に戻ってからは近所迷惑顧みず、
「こんな文化のないところ嫌だ」と騒ぎ立て喧嘩になりましたが。
このときゆみさんがくれたケースの郡上柿をペロリと平らげてしまった食欲には
むしろ嬉しい気分となりました。柿とトウモロコシ、イチジクが好物だからです。

そして亡くなる10日前の12月2日、天気がよかったためか
急遽、また家族で郡上へやって来ました。
このときは職人町や長敬寺などまで脚を延ばしました。
郡上八幡博覧館がバリアフリー対応だったらよかったのですが、ここは売店のみに止まりました。
そしてランチは『清竜』へ行きたかったのですが、
貧乏性でめんどくさがりの兄が近くの『大和屋』にしてしまい、
それでも山菜うどんを美味しそうにすすり、これが家族でとった最後の食事になりました。
このときも葵の城に戻ってからはひたすら騒ぎ立てる元気ぶり。
しかも帰りには「春まではウチに戻ってくればいいや」と困らせました。
毎度のことですが、なぜあのときあそこまで僕を連れ戻そうとしたのか?
あの言葉だけは10日後の今生の別れとなることを暗示していたのかもしれません。


豊山村(現・豊山町)は父の生まれ故郷で、戦時中に飛行場建設のために土地を追われました。
父は子どもの頃、「河童」と渾名されるほど泳ぎが得意で、
いつも近くの大山川で泳ぎ、鮎やウナギをたくさん採ったそうです。
もう現在は大山川もドブ川と化してしまい、水ガキも死滅しましたが、
よく大山川へ連れてってもらい故郷の方角を眺めていました。

何もあんな天候のときばかり来ず、もっと真夏の郡上に来れば
父の故郷の風景が観れたと思うし、『清竜』の鮎やウナギを食べて欲しかったけど、
とうとうそれは叶いませんでした。最後に天国の父へのメッセージを添えて締めくくります。
「お父さん、郡上八幡という町はね、自然と文化が息づく町で、
現在もなお、吉田川には水ガキ(河童)もたくさん生息しているし、
大山川にいた鮎やウナギもたくさん採れるんだよ。
五体満足だったらお父さんも新橋から飛ひ込みができたかな?
この変わらない風景は町の人がずっと守り続けてきたんだ。
以前よりも少し車が増えてしまったけど、長良川鉄道が生きている限りは
車を減らす手段となり得るから、長良川鉄道を守っていかなきゃならないんだよ」


この日長良川の鮎が世界農業遺産(GIAHS)に認定されたことを付記し、
役目を終えた長良川河口堰の早期撤去も願うのみです。


本日の木之前葵ちゃん
2Rリュウワンラララ4着(4番人気)
6Rエクラドレーヴ7着(3番人気)


新人研修明けでの騎乗で、そこそこ印もついていましたが、
馬券に絡むことができませんでした。明日に期待しましょう。


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