父 栄逝く(12月12日)

shugoro2015-12-14

12日(土)22時7分、父栄(さかえ)が急性心筋梗塞のため亡くなった。
享年85(満84歳)。
当日夕方に急に容態が悪化し、救急車で運ばれたが、
危篤の知らせから1時間後というあっけない最期だった。
まだ10日前の2日に家族で郡上へ来たばかりで、これが生前での最後の別れとなった。
原稿もあったため徹夜で書き上げ、13日の長良川鉄道の上り始発で帰省。
友引ということで葬儀は1日遅れ、13日は遺体が家に置かれ、
平安会館プレア小牧中央にて14日に通夜、15日に葬儀を済ませ
16日にようやく郡上へ戻ってきて17日になってようやく更新している。
闘病生活は14年におよんだ。ほとんど有限会社ブルボンクリエイションの活動期と重なっている。
形式ながらも取締役に就任し、葬儀費用の備えで退職金共済を賭けていた時期もあったが、
まさに会社解散のあとを追うように旅立った感じだ。
最初はまだ軽い脳梗塞で、車も運転でき杖で歩くことができたが、
病状は回復することなく悪化の一途をたどり、
晩年は車椅子で左目も失明し、左手も使えない状態だった。
次第に衰えてゆく父の姿には哀れみを感じたが
それでも母は介護が大変なことを承知で入院させることなく、
自宅で看病を続けた。食事やトイレのときは必ず起こし、
認知症が進行しないようリハビリを兼ねた週4日のデイサービス。
父はリハビリを嫌がり、毎日赤ん坊のように駄々をこねて母や兄を困らたが、
身体が自由にならないもどかしさもあったのであろう。「早く死にてゃあ」が口癖だった。
でも父の年金の存在は大きく、プータローの兄と母を養う資金力があった。
兄もそれなりに介護に協力していたのは分かっていたが、
このために余計社会に出られなくなるのではと心配だった。


生前は僕も兄も父が嫌いでよく衝突した。
父はことあるごとにお節介し、話がちっともかみ合わない。
しまいにゃ「うるさい!」という口喧嘩になってしまう。
でも、父が亡くなって、もうあの小言を聞くことも、喧嘩もできないことを思うと、
怒りより虚脱感や哀しみばかりが先行し、
「本当は喧嘩するほど仲がよかったんだな」と家族の絆を痛感した。
大して親孝行もしていないけど、喧嘩の相手をしてやることが親孝行
――まさに「この親にしてこの子あり」である。
郡上に移住してからは9月27日や11月8日の祖母の7回忌で帰ったし、
東京にいたときよりも帰省の回数は増えていた。
現在の実家は父の趣味で新築・改装しまくり、
バリアフリー仕様でなかったため、家のあちこちに手すりなどがつけられていた。
父の書斎や寝室は何度か移動したが、
トイレに近い祖母のいた部屋が終の棲家となった。

施設ではおとなしいのに、家では一家の長であり続け、また家族に甘え続けた。
高蔵寺「ベティさんの家」という施設で陶芸教室に通っていたと聞いたが、
片手で何が何だかわからない作品(写真中央)を一生懸命つくり
人間らしい暮らしができ、最期を母と兄に看取られ、その意味で父は本当に幸せだったと思う。
葬儀は急なこともあって、6年前の祖母の時よりも参列者は少なかった。
写真右のように新聞記事とアトムのタオル、施設でつくった駄洒落の作品、
猫のお手玉、耳かき、河童のマスコットなどが棺に納められた。
葬儀に関しては僕よりも喪主をつとめた兄のほうが大変だったと思う。
お父さんこれまで育ててくれてありがとうございました。
そして長い間の闘病生活お疲れ様でした。今はただただ安らかに眠ってください。


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