『TOKYO1週間』休刊へ

shugoro2010-03-24

本日は五反田で打ち合わせのあと、その脚で大塚へ出張校正という強行軍。
たまたま喜多方ラーメン坂内がここ2日間330円で食せるため、
昼も夜もラーメンを食してしまいました。
帰りは雨が降っているため、JRでの帰宅を避け、
新大塚から大手町で乗り換え、東西線経由で帰りました。
午前様にはギリギリならなかったけど、明日も清水へ二度目の出張。
版元負担で新幹線乗れるのは嬉しいけど、
どうも清水行くたびに雨では憂鬱ですね。
ちなみに本日、冒頭写真歴史群像シリーズ『石田三成』が復刊されました。
市町村合併に対応し、一部写真も差替えています。
お世話になっている桐野作人先生橋場日月先生も執筆しており、
特別付録の小冊子も付いてておトクです。
それにしてもこういう復刻本なら1カ月ぐらいで制作できるけど、
今日日は新刊を1カ月でつくれという無茶なスケジュール。
で、出したところで営業がダメならまったく喰いつかず、本当に厳しいご時世でございます。


前置きが長くなってしまいましたが、ミクシーのニュースで知りました。
あの『TOKYO1週間』(講談社)が6月8日発売号で休刊になるようです。
創刊は97年11月18日で当初は33万部だったそうですが、
最近は8万部程度まで落ち込んでいたそうで、『KANSAI1週間』とともに休刊とか。
お恥ずかしながら、当社も10年も昔、設立寸前の2000年12月〜2001年2月頃だったかに、
ラーメンと生ジュース特集で携ってしまったのです。
最初はしかも直受けでなく編プロもどき会社経由で孫受けでした。
編プロ経由だったので当時ページ単価5万のところ、
半分抜かれて2万5000円。さらにそれを下請けにふるという悲惨な曾孫受け状態。
それでもフリーの集まりが会社として維持できたのだから、
いま思えばまだまだ出版バブルの時代だったのでしょう。
でも、この編プロはマヌケなことをします。
なんと中抜きしながら管理せず、直接版元のフリー担当者と直でやりとりさせたのです。
これは「庇を貸して母屋を取られる」愚策。
直でやりとりさせるなら、直接取引きしたほうが担当者も楽ということで、
結局、二回目からは直接仕事が回ってきたのです。
しかし、要は店に取材のアポをとり、カメラマン同行で取材する人海戦術
原稿というよりデータ屋さんといったほうが正しいでしょう。
そしてその編プロ集団は維持できるわけもなく即解散。ギャラは未払いとなり、回収が大変でした。
さらに1年後、そのフリー担当者もアホな編集で失脚します。
いま思えばちょうど2001年3月19日から週刊が隔週になり、
これで人も半分減って、この仕事も3回ほどで終了しました。
「隔週ならTOKYO1週間でなく、TOKYO2週間じゃん」
なんて云ってたのも、その当時の話。もうこの時点で看板に偽りありだったのです。
それでもまぁ、ネットなどメディア環境の激変や読者のライフスタイルの変化があったにもかかわらず、
よくぞここまで維持できたと思います。しかも8万部なんて優秀じゃん。
それでも放漫な編集体制と芸のない企画や特集が身を滅ぼしたのでしょうが。
いつの間にか対抗馬の『東京ウォーカー』も2003年から隔週になっていたのですね。
トレンドにうといおっさんですから、全然買うこともなかったけど。


こちとらの新刊は文庫でも1万部切るスタート。
4000〜5000部の書籍なんて、しょせん全国に流通しないわけですから、
初速での売上げばかり気にする営業にも問題ありですね。
紀伊國屋のデータばかりアテにするけど、工作員が動いているって!
でも、頑張ってつくった本も売れないとあってはモチベが維持できるものではありません。
本を売るのは営業の仕事、つくるのが編集の仕事。
なのに自ら宣伝活動したり、行商に出たり、ビラ配ったりって、もう編集じゃないぜ!


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