さようなら東京1(6月28・29日)

shugoro2015-06-30

暦と1日ずれまずが、91年3月に上京してから24年3カ月も住み着いた
東京をついに去ることになりました。人生の半分以上費やしています。
87年3月から一時期、世田谷区上粕谷に住んでいたこともありましたが、
いったん地方に出たのち、記者になろうと再び上京したのが91年3月。
その後は6度の引越しで転々とするわけですが、歴史を追うとこうなります。


91年3月〜96年4月 練馬区西大泉
96年4月〜99年10月 豊島区南長崎
99年10月〜00年10月 渋谷区代々木
00年10月〜05年7月 新宿区上落合2丁目
05年7月〜07年7月 中野区東中野
07年7月〜11年7月 新宿区上落合3丁目
11年7月〜15年6月 中野区上高田


最初に西大泉に住んだのは当時はサラリーマンとして出版社に勤務していましたから
始発があって座っていける西武池袋線保谷駅を選択したわけで、
実際にこの場所が東京で一番長く住んだことになります。
その後は編プロに勤務していたときは勤務地が下板橋でここも通勤を続けていましたが、
94年6月にはこの地で会社の前身となるBourbon Worldを立ち上げます。
そして95年1月から東池袋にあった『競馬フォーラム』の編集部に勤務することになり、
仕事がハードすぎて通勤もきつくなってきたので、より近い豊島区南長崎に引越し。
しかし、このあとは共同事務所の関係でやたら振り回され、
渋谷区代々木では99年10月と00年3月に二度の引越しをせざるを得なくなり
引越し貧乏に陥ってしまいます。それでも00年8月には1カ月海外へ旅行に出かけているのですから
まだ出版はバブルだった時代なのでしょう。
その後、会社設立に向けて新宿区上落合2丁目に移転し、
01年4月には晴れて有限会社ブルボンクリエイション設立に至りますが、
波乱万丈の時期を経ながらひとつ問題が発生しました。
それはこの建物が光通信ADSL回線も引けない場所に立地し、
回線工事には電線が通る隣の住宅の許可を得なくてはならないのですが
頭の固い住民は決して首をタテに降らず、
ネット環境のために引っ越さざるを得なくなったのです。
中野区東中野に移ってから歴史や鉄道などの第二期ブームがあり
さすがに再度社員を雇用しなくてはならない状況にもなって
2006年9月には再び新宿区上落合3丁目に新しい仕事場の事務所を借り、
翌年7月には隣も空いたため、泣く泣く中野区東中野を2年で引き払いました。
そして新宿区上落合3丁目で住居と事務所の2部屋体制で最盛期を迎えます。
しかし10年7月頃から大家さんの死に伴い、耐震という理由で立ち退きをほのめかされ、
最終的に立ち退き料を払うということで解決はしたものの
今度はその不動産屋が指定した場所にしか移れなくなるという不都合を生じました。
結局は選択肢がほとんどなく、現在の上高田に2部屋体制で落ち着いたわけですが
もうこの頃には不況の波が押し寄せていましたから2部屋維持などできるわけもなく、
13年3月には一部屋に統合せざるを得なくなり、そこから郡上八幡へ荷物を運ぶ14年9月までは
本当に生活空間のないタコ部屋生活を余儀なくされました。
部屋のほうは落ち着いたのは束の間、今度は家賃負担がきつくなっていく一方で
7月の更新時期までに東京での去就を考えなくてはならなくなりました。
だが、今回版元の入金が1カ月ずれたこともあって
逆に移転を1カ月早めなくてはならなくなりました。
最終的に27日の東京郡上人会だけは参加したく、最終日を29日としたわけです。
しかし、もう6月後半は挨拶回りで慌しく、荷造りも27日の時点ではほとんどできていません。
それを聞いて野菜博士悦ちゃん「無謀だ」と云っていましたが、
28日に汗だくになりながらも頑張り、いつもお世話になっていた理容店のおじさんにも挨拶をし、
徹夜作業となりましたが、引越屋の来る9時までには執念で荷造りを終えました。
引越屋が荷物を引き取って、冒頭写真のように元の空家状態に戻ったのが11時頃。
あとは不動産屋の立会いまで畳で熟睡していました。
長くなってしまったので本日はここまでに致しとうございます(つづく)


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