『大勝軒』の思い出

shugoro2015-04-01

もう4月に入り、温かい陽気ですね。
近くの新井薬師公園で少しは桜でも愛でたいものですが、
仕事のほうもピークに差し掛かっており、ぼろぐ更新すらままならなくなっています。
本日のニュースはこちらから。
大勝軒の創業者・山岸一雄さんが死去、80歳】
「つけ麺」発祥の店として知られる人気ラーメン店「大勝軒」(東京・豊島区東池袋)の
創業者・山岸一雄(やまぎし・かずお)さんが1日、死去した。80歳だった。
 いとこの男性と共に、1951年に中野で独立したのをはじまりに、61年に東池袋店を開店。
以降、「つけ麺の元祖」と呼ばれ、人気を博した。後進の育成にも力を注ぎ、弟子を100人以上輩出。
のれんわけした店舗は、全国各地でファンの舌を楽しませている。
 東池袋店は、区画整理の対象となったため、2007年3月に46年の歴史に幕を下ろしたが、
1年後に旧店舗近くに復活。現在は弟子の飯野敏彦氏が
2代目店長を引き継いでいる(スポーツ報知 4月1日(水)21時24分配信)


ラーメン業界ではその名を知られる「つけ麺生みの親」山岸さんが亡くなりましたか。
昔、旅行関係の取材をしていた頃は、ラーメンのガイドブックとか
『TOKYO1週間』の特集などで、よく『大勝軒』や『丸長』系のラーメン店を取材したものです。
東池袋本店を取材する機会はありませんでしたが、
『競馬フォーラム』の編集記者時代に編集部が近くだったので一度だけ行ったことがありました。
近くにあっても行く機会がなかったのは、いつも長蛇の列でランチをゆっくりととる時間がなかったから。
でも、一度だけ編集部員の一同で並んで食したことがあります。
あのとき厨房の奥に山岸さんがいたようないなかったような。
大勝軒』系統はとにかく麺のボリュームが半端ない。
系統は複数ありすぎてどこの暖簾分けか分からないのですが、
この『大勝軒』に初めて行ったのは、たしか1990年で保谷の『大勝軒』。
めぞうに連れられて行き、このときも麺の量に驚いたものですが完食しました。
その後、上京したときに最初に住んだのが練馬区西大泉で
最寄が保谷だったため、たまに麺が無性に食したくなったときは会社帰りに行ったものです。
しかし、95年にこの本店の『大勝軒』へ行ったときは
長蛇の列もさながら、その麺とチャーシューのボリュームに圧倒!
チャーシューはゴム草履のような分厚さと噛み応えで
女性部員にも容赦なくこの量が出され、もちろんギブアップしていましたが、
僕はたしか麺だけはかなり食した思い出があります。
ラーメンは大体腹持ちがよくないものですが
このときばかりは夕食の時間になってもいっこうに胃がもたれて食べれませんでした。
まだ若き20代で食せなかったのだからリベンジを果たそうとも思いませんでしたが。
この店の伝説的な逸話として1986年にパートナーの奥様を亡くされ、
いったん休業しましたが、ファンの強い要望で貼紙がいっぱいになり再開。
これは漫画でも紹介されていましたね。
1年ちょっとで『競馬フォーラム』を退社したので東池袋とも疎遠になり、
2008年の再開後も行く機会がなかったので写真は撮っていませんが、
同じ系列の『丸長』のつけそばを載せておきます。

これも(゚Д゚)ウマーで、昔はたまに食べに行ったものですが、
最近はジリ貧でこういう店に行く機会もめっきり減りました。
それにしても冒頭写真のように山岸さんの像まで作られているとは
やはりラーメン界ではカリスマ的存在だったのですね。ご冥福をお祈りします。


本日の木之前葵ちゃん
2Rハナビレジェンド6着(6番人気)
3Rダイヤパッション6着(6番人気)
9Rエガオデコタエテ2着(5番人気)複勝830円アタリ


印のつかない馬3鞍騎乗で9Rは7頭立てだから2着までに入らないと
複勝圏内に届かなかったのですが、5番人気という低評価にもかかわらず
山下雅之騎乗セントウイナー(3番人気)をハナ差押さえての2着。
さすがに勝った馬が頭抜けていましたが、2着確保で複勝830円は無茶美味ち〜。
これで本日はプラス収支としました。


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