怖いようつべ「変声期」の古庄紋十郎

本日は打ち合わせが2件あり、近くの『ココス』で2件目の打ち合わせが
あったにもかかわらず、ゲラの赤字転記のために再訪しました。
そればかりかカバーの直しをつくったり、郡上八幡への空き家申請登録書類をつくったりと
とにかく雑用から仕事まで丸一日追われて疲れました。
二度目の『ココス』を出たのは午前1時半でしたから。


そんな日常の話題ではつまらないので、本日はちょっと怖〜い話です。
以前、『トリビアの泉』でも取り上げられたそうですが、
中学1年の音楽の教科書に変声期」という項目があり、
たしか一学期の某日の授業でこのレコードを聴かされました。
「わたしは声です」で始まる不気味なナレーション
この「変声期」の主人公が古庄紋十郎君という少年で、
昭和35年(1960)の12歳から昭和38年(1963)の15歳まで
毎週のように「シューベルトの子守唄」を唄い続けます。
児童合唱団に入っていて美しい声色をしていたのに、二度目に変声期の前ぶれが起こり、
再び美しい声に戻るのですが、声の記録を取りはじめてから10カ月後に声変わりの兆候が現れます。
はっきりいって古庄君がモルモットにされている気がならないのですが、
このときのナレーションはもっと残酷です。
「自分の声の裏切りに苛立ち、仲間から脱落していくような不安にさいなまれたのです。
それだけに彼は、日ごと遠ざかっていく少年の声に追いすがり、
次の週も、また次の週も歌い続けました」

そしてついに高い声が出なくなり、古庄君は少年の声と別れを告げます。
もうこのときの歌がもの悲しいですが、ナレーションのほうがもっと怖い。
「あえぎながら登りついたひとつの峰。それは行く手に新しい世界を垣間見ながらも
まだ遠ざかり失われてゆくものを惜しんでいるいるように見えます」

いま思えばまだ変声期を迎えていた男子が少なかったのですが、
なんかトラウマになるような恐怖に陥った人も少なくはありません。
ところがshugoroはこういうこともギャグにしてしまう性質でしたので、
この授業が終わったあと、この古庄君の声色をまね、M谷君を勝手に「紋十郎」と呼んで、
「○年○月○日、M谷紋十郎、ねむれ〜ねむれ〜」とやって大ウケでした。
これはshugoroばかりでなく、他の生徒もよく真似ていました。
いま思えば「変声期」の恐怖から逃れるためにちゃらけていたのかもしれません。
中学2年の授業でも一度、皆で変声期のレコード聴きたい」と先生に駄々をこね、
授業を一時間分つぶしたこともありましたが、
この古庄君の写真は担任の安兵衛先生に似ていて笑っていました。
いま思うと、こういう他人の不幸をあざ笑う
恐ろしい人間だったわけです(僕だけじゃないけど)
そういう僕はこの変声期がいつだったかも分かりませんが、
たしかに昔出たひよこの鳴き声まことちゃんの甲高いカラ笑いなどはもうできません。
そしてM谷君はこの授業以来、「紋十郎」と渾名されるようになり、
中学・高校を卒業したあとの予備校でも「紋十郎」と呼ばれ続けていました。
怖い言霊ですね。その後、M谷君がどこの大学へ行ったかも知りませんが。
また当の古庄紋十郎君も数年前の調査で、すでに鬼籍に入られたようです。

それでもなぜか30年を経た現在でも、
こうしてようつべにUPされている「変声期」のレコード。
なんかもう、ここまで残酷だと、声を失いたくないなら、
タマを取るセン馬ならぬカストラートになれよというような教材です。
間違っても思春期を迎える男の子には聴かせないほうがいいかもしれません。
※ちなみにこの変声とは別の今野真一君の「冬の星座」は、
変声前と変声中、変声後の三重唱がすばらしいので必聴です。


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