地下鉄サリン事件のあったあの日

本日11時10分にオウムの高橋克也容疑者が逮捕され、
地下鉄サリン事件から17年を経てようやく特別手配の19人全員が逮捕されました。
今月3日に菊地直子容疑者が逮捕されたことで、
潜伏の情報が明るみになり、12日後の逮捕でした。
意外だったのは逮捕されたのが、JR蒲田駅近くの漫画喫茶だったこと。
逃亡したあとの捜査では監視カメラの多い都内は避けるとか書かれていましたが、
まったくその裏をかいていたわけで、警察の不甲斐なさも非難されています。


地下鉄サリン事件があったのは、17年前の95年3月20日の午前8時頃。
ちょうど霞ヶ関を通る地下鉄の5編成が無差別テロに遭いました。
実は僕もこの事件に巻き込まれる可能性がなきにしも非ずだったのです。
というのは神谷町の公的機関に半サラリーで勤めていたことがあり、
当時は練馬区西大泉に住んでいたので、始発のある保谷から西武池袋線で池袋に出て、
丸ノ内線に乗り換え、さらに霞ヶ関日比谷線に乗り換えて神谷町に通勤していました。
お役所勤めは例年9月〜翌3月の半年の平日月〜金曜でしたが、
このパターンが1994〜2000年まで続いていました。
ただし、95年はちょうど『競馬フ○ーラム』のフリースタッフとして、
東池袋へつめていた時期なので、幸いにも地下鉄を利用していなかったのですが。
当時はやっと競馬の仕事につけ、しかも神谷町から池袋と通勤の場所が近くなり、
出社も1時間遅く、スーツを着る必要がなくなったことで喜んでいました。
しかし、報酬の面でいけばお役所のほうが断然よく、
競馬雑誌の一編集では残業代もつかない薄給に加え、トップの搾取がひどいばかりか、
仕事のスキルが向上すると、旧来の創刊メンバーをクビにし、
こちらに無尽蔵に仕事を押し付けるため、他の仕事がまったくできなくなってしまい、
競馬雑誌の編集に専念させられればさせられるほど、
赤字になって貯金を崩すという羽目に陥ってしまったのです。
そのため95年末には、もう貯金が底をついてジリ貧状態になってしまい、
このことでお役所の上司に挨拶がてら相談に行き、
96年の年明けからは再びお役所優先で勤めることにしたのです。
なので96年1〜3月までは競馬雑誌との掛け持ちでしたが、
このときは結構稼げたので、4月には豊島区南長崎へ引越ししています。
そしてお役所の仕事がなくなる4月以降は競馬雑誌に再び専任になり、
ここでまたお役所で稼いだ金がどんどん減っていき、
8月5日をもって『競馬フ○ーラム』のフリースタッフから降りました。
最後の7月は1カ月のうち27日出勤で、会社にも何度も泊まり、
銭湯セットまで机に入っていたのだから、その凄まじさがうかがえます。
そして翌9月からはまた通常のお役所勤めに戻ったわけです。
そんなわけで、たまたま空白の年に事件が起きたのですが、
やはりお役所の社員の方々の安否は気がかりでした。
幸い神谷町の仕事開始が9時なので、普通に通勤すれば霞ヶ関は8時30分過ぎ。
わずか30分の差で社員の方々も難を逃れることができました。
この日は地下鉄が止まってしまったので、
どうやって会社まで行ったのかは聞いていませんでしたが。
しかし、当時の上司はすごい真面目で厳しい方でしたので、
出社も9時ギリギリでなく、1時間以上前にはもう出社していました。
この上司はすでに神谷町駅を降り、事件が起きたときは会社近くの喫茶店だったそうです。
もし、この上司が事件に巻き込まれていたら、
僕もお役所勤めの仕事がなくなってしまっていたことでしょう。
僕が不定期で出向するという裁量権は、この上司が握っていたのですから。
さすがに社員ではない立場もあって、やはり勤務時間は息が抜けませんでした。
9時ギリギリ出社というわけにはいきませんので、
やはり10分〜15分前には出社していましたし、
ちょっと早く起きて『ドトール』で一服という日もありましたから。
と考えれば、8時頃に霞ヶ関を通る列車に乗っていたことも何度かあり、
自分や勤め先の上司がこの事件に巻き込まれていたら、いまどうなっていたことでしょうか?
また不運にもこの無差別テロに巻き込まれて亡くなられた方のご冥福を再度お祈りいたします。


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